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ドラゴンランス邦訳
いつのまにかどしどし刊行されていたドラゴンランスの新作邦訳。そしていつのまにか付いていた「全世界5000万部」という大層な叩き文句。ご、5000万! いやはや。
レオルクスの顎髭にかけて、ごせんまん!

「戦記」「伝説」「英雄伝」あたりから先の物語については、以下のように分冊でこれまで都合7巻が出版されているみたいです。

・「夏の炎の竜」(上・中・下巻)
・「魂の戦争」
   第一部「墜ちた太陽の竜」(上・中・下巻)
   第二部「喪われた星の竜」

著者はもちろんワイス&ヒックマン。僕が戦記や伝説を愛読していた頃からもう10何年と経つし、アスキーの新訳版では誤訳が修正されて著者自身の大量の注釈も付いているそうで、いっそまるごとそろえ直そうかという気もしてきました。しかし、今から品薄な本を探し集めるのは少々億劫でもあるし。うーん。

他にアメリカン・ファンタジーで気になるのはジョージ・R・R・マーティンの「七王国の玉座」。内容はランスよりもややヘヴィな、謀略三昧の歴史ものだとか。あるいはこっちのほうが今の僕の好みには合うかもしれません。今が旬な感じで入手もしやすそうなので、ひょっとしたらランスより優先するかも。



[ネタ] 架空の書物・文献一覧
タイトル見て一瞬これはっと思ったけど、大半はアニメや漫画に出てくる小ネタでした。皆川博子も古川日出男もカレル・チャペックも載ってない。ボルヘスやレムへのリンクは張ってあるのになあ。

[アニメ] OVA「マルドゥック・スクランブル」製作中止
トップ絵もしょんぼりな感じ。その代わりと言っちゃなんですが、「空の境界」は正式にアニメ化決定の模様。むむむ。

[本] 「重力ピエロ」伊坂幸太郎
読書中。異常に読みやすいなぁ。
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by umi_urimasu | 2006-12-29 19:18 | 本(others) | Comments(2)
映画「パプリカ」
a0030177_16492350.jpgうつし世は夢、夜の夢こそまこと。
現実を愛し、それにもまして虚構を愛する者たちよ。
同胞たちのあげる悦楽の咆哮が聴こえるか。


筒井康隆好きならたぶん誰しも、映像化の難しい作品であればあるほど、その映像化を切望していることでしょう。でも実際には、需要と供給はうまくマッチしてくれたことがありません。

これまでも原作に選ばれてきたのは「七瀬ふたたび」「大いなる助走」「男たちのかいた絵」「俗物図鑑」「ジャズ大名」などなど、比較的現実味の強いタイプのものがほとんどでした。
理由は主にお金の問題だろうと思うけど、供給側には映像表現上のハードルの高い原作を極端に嫌う傾向があるらしい。しかし、ファンがほんとうに見たいのは「朝のガスパール」「虚人たち」「夢の木坂分岐点」「虚構船団」「残像に口紅を」「唯野教授」といった、「どうやって映像にすんだよ」的な作品群なのであり。

この落差が一向に埋まらないまま、数十年が過ぎ去って……

そしてこのたび、ついに「パプリカ」のアニメ化が実現したわけです。
これはちょっとしたブレイクスルーと言っていい。夢と現実の混淆という、筒井康隆作品のなかでもとりわけ映像レベルでの虚構性の強いものが巨費を投じた劇場映画の題材に選ばれた、おそらくは初めての例だからです。1980年代以降の超虚構的な筒井作品の映像化は、当時はいざしらず、現在の技術をもってすれば十分可能であり、なおかつ商業的なヒットも見込めるということがこれでようやく証明されたと言ってもいいでしょう。

ええ、それでつまり何が言いたいのかというと?

誰か虚航船団の映画を作ってくれよってことですねえ。
もう僕と来たらそればっかりで。いや、もうこの際、ビジュアルノベルでもいいから。

そういえば、イーガンの「万物理論」にはPCを使ってたった一人でドキュメンタリー番組をちゃかちゃか作ってる描写がでてきます。早くああいう時代になればいいのになあ。

ファンにとっては、とりあえず映画化されたというだけでも十分嬉しいわけですが、パプリカについてはそれが今敏という監督の手によって行われたこともたいへんな幸運でした。なにしろ、「千年女優」でも随所に見られたメタフィクショナルな演出が最初から最後まで全開状態ときては。原作のもつけだるさや背徳感はやや抑え気味になったものの、その分サスペンスとしてはコンパクトでスピード感のある仕上がりにもなっています。絵も流れていくのがもったいないぐらいの奇麗さ。人形の行列やさびれ果てた廃墟の風景の不穏さが特に印象的でした。
ちなみに音楽は平沢進。活動写真のなつかしさと仮想世界SFの新しさを合わせもつ「パプリカ」の雰囲気に、超時代的な平沢サウンドはまさにおあつらえ向きという感じ。

いやまったく、とんでもなく快楽的な映画だったよ。

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劇中のキーアイテムのひとつでもある日本人形のイメージは、作者自身が執筆中にその夢を見て恐怖のあまり総白髪になったという逸話があったけど、さすがにアニメではそんなに怖くない。でもあの気味悪さはすごくわかる。日本人にとっての日本人形って、動いたらヤバいモノの筆頭じゃないでしょうか。どうしてあんなに異常に怖い気がするんだろう?
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by umi_urimasu | 2006-12-25 17:31 | 映画 | Comments(0)
「マルドゥック・ヴェロシティ」3 冲方丁
a0030177_17592895.jpg"皆殺しの冲方"、本領発揮。
予想通りとはいえ、終盤の凄絶な展開には肝が冷えました。紙面からむらむらと殺気が立ちのぼるかのようなあのテンションの高さはいったい何ごとか。死と裏切りの果てにとうとう心折れ、修羅と化したボイルドによる大殺戮ツアーの凄まじさ。
どう見ても英雄本色です。本当にありがとうございました。

「スクランブル」と「ヴェロシティ」を読むかぎりでは、冲方丁という作家は、微妙な心理描写にさほど飛び抜けた技巧を示すタイプじゃないようです。いわゆる小説よりもどちらかといえばシナリオ的な、即物的な説明を延々とつらねる書き方をする人という印象が強い。キャラ描写よりもストーリーを重視する派と言ってもいいのかもしれない。
しかし、だからといってキャラクター心理が掴みづらいのかというと、そうではないのが不思議なところです。彼の作品の主人公は、バロットにしろボイルドにしろちっとも饒舌な方ではないのに、無愛想な文章からは思いもよらないほど明確な感情を読み手にぶつけてくることがある。能弁な心理描写がなくてもキャラクターの内面にまで強烈な光を当てることのできる何かが、彼の語る物語にはあるらしい。
あれはいったいどういう仕組みなんだろう。プロット自体のもつ説得力の強さのせいなのだろうか。
その前に「冲方はいつもこうなのか?」という疑問もあるので、できればマルドゥック以外の作品と読み比べてみたいところなんですが、「ばいばい、アース」は価格の高騰著しくいまだ入手困難。復刊された「黒い季節」でも当たってみるか。

「ヴェロシティ」という作品は、一人の兵士の破滅の物語という面以外にも、マルドゥック・シティという悪徳の市の実態をつまびらかに描いた都市小説的な側面も持っています。警察組織の汚職、ギャング同士の抗争、売春や麻薬の蔓延、大企業と法曹界に根をはる陰謀や権力闘争、戦争の後遺症、人知れず社会に浸透してゆく新人類〈シザース〉のたくらみ。そしてスクランブル-09という超便利機関。これだけ魅惑的な素材がそろった犯罪サスペンスの舞台は、冲方丁自身ですら、そうほいほいと作れるものじゃないでしょう。だからこそ、「ヴェロシティ」でこの街の紹介が終わってしまうのは非常に惜しいと思うのです。
というわけで、またまた続編希望。できれば今度はバロット大活躍な方向で。

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「ヴェロシティ」は相当な難産だったらしく、あとがきもどことなく電波気味でした。連絡を断ってホテルを転々としながら書いたとか、新幹線車内のトイレでエピローグ書いてゲロ吐いたとか、放浪中の記憶がまったくないとか、むちゃくちゃな逸話も書かれています。読者にしてみれば「そりゃ大変でござんした」としか言えないわけだが。まあ、そのおかげでこれだけヘヴィな作品ができたのなら我々はゲロにすら感謝することだってやぶさかではない。
かくて冲方さんの尊い犠牲は報われた。めでたしめでたし。

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[アニメ] 「カレイドスター」再放送・スペシャルセレクション
来年1月より各局で放送開始。未見の人はぜひこの機会に!
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by umi_urimasu | 2006-12-20 20:15 | 本(SF・ミステリ) | Comments(0)
「マルドゥック・ヴェロシティ」2 冲方丁
a0030177_815023.jpgはじめちょろちょろ中ぱっぱ。爆発してもフタ取るな。
孤高の兵士の精神をさいなむ虚無と良心の葛藤を極限のテンションで描く、冲方丁渾身のSF三部作。


第二巻では前巻のサスペンスムードから一転、のっけから人外武芸帖が炸裂します。襲い来るは凶悪無比の傭兵部隊〈カトル・カール〉。これがもう、なんていうかなあ。とにかく非人間的なまでに品のない超変態集団で。両腕人間、タイヤ人間、鹿人間、先行者、ゴスロリ乳母車、ゴキブリ人間などなど、怪しい現代アート並みにねじくれた容貌の殺戮狂どもがフォー・レター・ワードを連呼しながら問答無用で飛びかかってくるわけですよ。
おーい誰かガッツの行方を知らんか?

こうしたC級ホラー映画顔負けの狂騒は、いささかやりすぎの感もある。あるんですが、それがかえって作品全体のテンションを高めるのに一役買っているようにも思います。硬派な社会サスペンスのまっただなかに明らかな異物であるモンスターバトルを挿入し、その異物感をあえて放置するこの乱暴さ。その計算されたアンバランスがどうにかしてプラスに働けば、作品全体を包む攻撃性へと転化できる。もちろんうまくいったらの話ですが。
そういえば前作「マルドゥック・スクランブル」も、三部作のうちのほぼ一巻分近くをギャンブルシーンのみに費やすという型破りな構成を持ち、そのバランスの崩れが妙な迫力を生み出していたものでした。
リスクも大きいが実入りも大きい。これが冲方丁のファイトスタイルなのかもしれません。

物語はスクランブル-09機関の栄光と凋落を、そしてマルドゥックシティの覇権をめぐる巨大な陰謀を、膨大な情報量で描き出しつつあるところ。ギャングの抗争の裏にかくされた企業と法政界のスキャンダル。謀略の罠に巻き込まれる09のメンバーたち。しのびよる破滅の足音。そしてボイルドの良心を喰らいはじめる虚無のビジョン……。次巻、激震必至の予感。
ちなみに第三巻のテンションは三部作中で最高潮のものとなり、「スクランブルを越えた」と高く評価している人も少なくないらしい。期待しておこう。

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蛇足。ボイルドとナタリアの赤ちゃんの運命がけっこう気になるんだが、平穏無事に生まれるのだろうか? 名前が付くとしたらやっぱり卵がらみなのか? ていうか、もし女の子でボイルド似だったらどうすんだ?
いらんことばかり気にしつつ完結編へつづく。

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パプリカの映画見てきた。ハ、ハラショー!!
筒井康隆もバーテンダー役で出てたよ。
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by umi_urimasu | 2006-12-17 08:22 | 本(SF・ミステリ) | Comments(0)
物語とキャラクター/作品の読み方に優劣なし
kaienさんの『「キャラ」を見ずに「作品」を語るひとたち。』がたいへん面白い。
でも引用の部分に対しては異論もある。

作品をストーリーやキャラクターなどの構成要素に分解することは、「読み方(観照法)」とは何かを単純化して考えるときにはいい手だと思います。ただし、すべての要素を総合的・批評的に読むほうがキャラしか見ない萌えオタ的な読み方よりも優れている、みたいな前提をおいて読み方論を展開するのはいただけないかもしれんと思う。
その前に、作品の読み方にいいも悪いもあるんかい、という問いを吟味しないといけないんじゃないだろうか。

元エントリー引用部の竹熊健太郎氏の発言では、作品の読み方について「作品(全体)>キャラ萌え」という明らかな優劣差が意識されています。でも僕自身は、その読み方のどちらが良いか、または悪いかを判断できる公正な基準があるとは思っていません。というより、どんなに断片的でかたよった読み方と比べても良し悪しなんて決められる気がしない。

ひとつの作品を1万人の読者が読むとき、そこには1万通りの読み方が生まれます。そしてそれぞれの読み方は、読者ひとりひとりに異なる体験をもたらします。同じ話を読んでも泣く人もいれば笑う人も怒る人もいる。それらの体験の意味なり価値なりを、なにか一定の基準にもとづいて比較評価することはまず不可能でしょう。
作品を読むっていうことは、ものすごく個人的で独立性の高い行為だと思うのです。

しかし、元エントリーの引用部から察するに、竹熊氏の談話と伊藤剛氏の「テヅカ・イズ・デッド」はどちらも、特定の読み方をそのまま一般的な作品の評価基準とすることに何の疑いも抱いていないように見える。竹熊氏は網羅的・批評的な読み方に信仰的なこだわりをもち、「テヅカ・イズ・デッド」は単独の要素だけの「読み」行為はないと主張しています。彼らのそういう読み方が作品の評価基準としてどれほど信頼できるものか、検証は容易でないはずなんですが。

たとえば竹熊氏が言うように、ストーリーもキャラも何もかもひっくるめて「トータル」な読み方をしたとして、それでどんな作品も適切に理解できると断定していいものでしょうか? おそらく話はそう単純ではありません。そもそも適切かどうかの判断が主観的だし、何をもってトータルとみなすのかも曖昧です。それに「理解する」ということ自体、無数の読み方のうちのひとつでしかない。たとえ作者自身であろうと、自分の作品を真に理解できているかどうか本当のところはわからないに違いないんです。ましてあかの他人である読者や批評家においておや。

僕自身は、ストーリーだけ、キャラクターだけ、映像だけ、音楽だけ、テキストだけ、あるいは萌え要素だけにかたよって他をないがしろにする読み方だって当然あり得ると思うし、根拠がないかぎりそれらが網羅的な読み方よりも軽視されたりしてはいけないと思います。作品は読者に対していかなる読み方も強制しない。そして完全な読み方や有益な読み方の基準なんてものがどこにも存在しない以上、あらゆる読み方は等価なものとして容認されていい。
よく知らんけどこういうのって、大昔から自明な話なんですかのう。

ちなみに、海燕さんの「キャラは作品の一部」という指摘には僕も賛成。そこに「キャラ萌えは作品の読み方のひとつ」って言い足しておこうかな。ただ、

>作品を構成するあらゆる要素の中で、なぜ「キャラ」だけが特権的に扱われるのか

という問題についてはよくわかりません。さっぱり実感がないので。どこか僕の知らないところで特別扱いされてるんだろうとは思いますが。
とりあえず考えついた理由は、単純にキャラ要素が作品において大きなウェイトを占めるケースが多いから、っていうものです。作品ごとに各構成要素の比重はまちまちだが、キャラが多くの作品の成立に欠かせない重要なファクターであることは間違いない。したがって、作品語りのときには良くも悪くも無視できない存在となる、とか。
とはいえ、キャラ以外の要素に重点をおいた作品だって世の中にはいくらでもあるわけで、たとえばミュージカル批評なんかでは、物語やキャラが「音楽」より下位に置かれることもなくはないでしょう。海燕さんはないって言うけど、「音楽だけ聴いて映画を見ていない」という批判だって十分ありえると僕は思いますね。

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元エントリのリンク先の竹熊氏の談話は、僕には全編わからんことだらけでしたが、オタク自身によるキャラ萌え批判もそのひとつでした。動機は何? キャラ萌え傾向の激化にともなう物語の衰退、ひいては分野全体の衰退への危惧? しかし、萌えの行き過ぎぐらいでそんなに致命的な事態になるもんだろうか。実際のところ、今も昔もさして状況は変わってないんじゃないのかな。
初代ガンダム時代にシャアのミーハーファンが大勢いたのと同じように、現代ではキラやアスラン単体にしか興味のない種っ子がいっぱいいます。同じように、平安時代には源氏物語のストーリーよりも葵の上や紫の上単体にしか興味のないミーハーな殿上人がいっぱいいて、コアな紫式部ファンから「軽薄」と批判されてたに違いないですぞ?
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by umi_urimasu | 2006-12-13 10:10 | まぞむ | Comments(4)
「マルドゥック・ヴェロシティ」1 冲方丁
a0030177_23263622.jpg2006年の日本SF大賞は萩尾望都の「バルバラ異界」に決まったそうです。
去年の受賞は飛浩隆「象られた力」。その前の年は映画「イノセンス」。そのまた前が、冲方丁の名を不動のものとした三部作「マルドゥック・スクランブル」でした。今回の「ヴェロシティ」はその続編。
ただし内容そのものは「スクランブル」の前日談。

主人公は「スクランブル」でバロットの強敵として登場したボイルド。重力場を自在にあやつる能力をもつ彼は、かつては万能武器鼠・ウフコックのよきパートナーであり、最高の理解者でもありました。その彼が、なぜ相棒と別れて企業に飼われる殺し屋になったのか?
前作では非人間的な悪役イメージの強かったボイルドですが、この作品によって、寡黙な巨漢の知られざる暗黒面がじわじわと明るみに出てきつつあります。なんか色々壮絶な事情があったらしいね。
24時間眠らない戦闘屋も、結局はひとりの人間だったということでしょうか。

「ヴェロシティ」は単品でもかなり面白くなりそうな話ですが、「スクランブル」とこれを読み比べる楽しみはもしかするとそれを凌駕するかもしれません。絶望を乗りこえて卵の殻を破り成長した雛鳥・バロットと、文字通り固ゆで卵になってしまったボイルド。同じように死の淵から這い上がり、同じように生きるための力を手に入れたはずなのに、彼らはなぜこうも対照的な方向へ歩むことになったのか。
第一巻ではそれほどあからさまに二人を対比させてはいませんが、「戦いの中で人の生きる意味を問う物語」という点で二つのシリーズはほぼ一貫したテーマをそなえているようです。
バロットのドラマから片時も目が離せなかったのと同じく、今我々はボイルドのドラマから目が離せない。前回の主人公は美少女で今回はむさいおっさんという違いから少々のマイナス補正がかかってしまうのは避けられないが、それでもなお目が離せないのです。

そして「スクランブル」のカジノシーンの、刃の上を素足でわたるようなあのスリルを、この作品は越えることができるのだろうか?

確実に期待度を増しながら、第二巻へつづく。

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「マルドゥック」シリーズの舞台は未来のアメリカ(たぶん)。そこでは大きな戦争が終わったばかりで、平和な時代ではもてあますような特殊能力を与えられたサイボーグ兵士が仕事もなくてあぶれています。そんな状況なので、中には生きるために自らの利用価値を証明するよう要求されて「スクランブル-09」の執行者となる人もいるわけで。
しかし、社会において誰かの利益を守ることは、他の誰かの利益を削りとることに他ならない。それぞれユニークな超能力をもつオーナインのメンバーに対し、彼らと同じ異能傭兵集団〈カトル・カール〉が、その不利益を快く思わぬ黒幕の走狗となって牙を剥く……。第二巻では「スクランブル」の生肉組を凌駕する異能者どうしの全面対決が描かれることになるはず。バトルシーンにも超期待!

さあ、二巻読むぞー。

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あとひとつ、「ヴェロシティ」で特徴的なのが文体。冲方丁はもともと翻訳小説的な文体を意識的に使う人らしいんですが、本作ではさらに「/」や「──」で単語を区切りまくるという、ほとんど単なる箇条書きに近い文体も多用されています。文章の主述関係すら排して、ただ情報を並べていく。もはや脚本のト書きとかに近いですね。単語の集合にその場の文脈に合う意味を自分で与えなおすという作業が必要なので、慣れるまでこれは少々読みづらい。連想シーンの心理描写などで効果的に使われていたりもするんですが、それこそ単なるト書き状態なところもあったりで、やや諸刃の剣っぽい感じ。
せっかくこういう文体を使うなら、一度ぐらい目を剥くようなむちゃくちゃな使い方ってのをやって見せてほしいかなあ。
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by umi_urimasu | 2006-12-05 23:44 | 本(SF・ミステリ) | Comments(0)