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チーキュの長い午後
『沙耶の唄』(ニトロプラス)

これまで「燃える戦闘+純愛悲劇」というおいしい餌で客を釣り上げてきた虚淵玄氏が、ついにエンターテインメント作家として牙を剥いた本作。
正直言って、そこらの直木賞とか何々賞の小説などより面白かったです。もうタナトス汁出まくり。
もちろん文章だけでなく絵や音の助けを借りてはいますが、それこそがデジタルノベルの強み。視聴覚的な入力というアドバンテージを活かし切った演出には唸らされました。特に音楽や音声の効果は抜群で、エンディングテーマの美しさは涙ものです。

題材としては目新しいものではありません。いわば「パラサイトイブ+火の鳥復活編」。
しかし卓越した描写力は、否応なく読み手をダークな世界に引き込みます。いきなり強烈な不快感を叩きつけてくる導入部など、この手のゲームとしてはかなり珍しい方でしょう。それでも日常に留まろうと必死に抵抗する読者を、虚淵玄のシナリオは的確に、また容赦なく、奈落に突き落としてくれます。
一般には敷居の高いホラーというジャンルではありますが、この系統がかなり苦手な自分でも「これは好き嫌い抜きで読むしかない」と腹をくくらざるを得ませんでした。ちょうど「寄生獣」がそうだったように。

「沙耶の唄」はひどく残酷で甘美な恋物語です。
もし自分の脳が小さな接続ミスを起こして、あらゆる人間をおぞましい肉塊としてしか認識できなくなったら? 世間の人々は今まで通りに自分を普通の人間として扱ってくれるのに、自分にとっては彼らが怪物にしか見えない。
そんな世界でただ一人正常な姿を持ち、普通に会話が出来る存在に出会ったとしたら。もしその相手が異性であれば、恋に落ちても不思議ではないでしょう。恋愛というよりは、孤独を恐れる社会生物としての本能的行動かもしれませんが。どちらであろうと、彼あるいは彼女はその絆にすがる以外にありません。その先にある世界が他人のそれとは全く相容れず、社会的モラルどころか生物にとって最も基本的なルールを破る事になったとしても。

しかし一方、あるべき所から外れてしまったその精神を、外から冷静に眺める視点も読み手には与えられています。どちらが狂気でどちらが正気なのかは、この場合主観の相違にすぎません。
両方の視点が共存することによって、我々は常にその境界を把握する事ができ、同時に郁紀や沙耶の孤独の深さも想像できてしまいます。生理的嫌悪の対象でありながら、その対象を愛せざるを得ないという理不尽。恋する少女の一途な思いは遂げさせてやりたいが、引き換えに人間として失うものはあまりにも大きすぎる。そんな葛藤の時間を引き延ばすためか、視点をどちらか一方に固定する事なくこの物語は進みます。
その葛藤が消え去るのは、もはや二つの価値観に引き裂かれる事のない世界が現出した時のみ。正気と狂気を隔てていた壁が消え、星ひとつが丸ごと単一の種によって満たされるという安心感は、我々が知覚できる限りで最大スケールのシンパシーともいえます。
「彼女」が望んだ結末という意味では、それは最も甘美なハッピーエンドの形なのかもしれません。


18禁という罪な分類法のせいで低劣なポルノウェアとみなされ蔑視を受けるのはこの手の商品の宿命ですが、『沙耶の唄』に限っていえば決して低劣ではありません。ポルノとしての価値もありません。これは純粋な恋愛小説です。例によって光るシールが貼ってあったりしますが気のせいです。
偏見を越えて、老若男女の別なく多くの人に触れて欲しい良品。
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by umi_urimasu | 2004-06-30 17:51 | ゲーム | Comments(0)
「俺に言ってるのか? どうなんだ? (# ゚Д゚)ゴルァ?」
タクシードライバー

1976年作品。
クライマックスの暴風のような殺戮シーンは何度見ても凄絶の一語に尽きます。マーティン・スコセッシのニューヨーク描写にデニーロを起用しておいて、大人もチビる銃撃戦。これは言うならば、アメリカ映画という料理の中でもいちばんうまい汁を吸い放題ということです。徹底してクールな演出、圧倒的なデニーロの演技力。そしてラストの決壊に至るまでの積み上げは、あくまでも深く静かに。抑えに抑えた抑制がついに切れる瞬間は、映画史上に残る名シーンでしょう。

主人公はベトナム帰りの冴えないタクシードライバー。社会に対するやり場のない憤懣は、その孤独な性癖と潔癖さのために行き場をなくし彼自身の内に溜まり続ける。彼がアパートの中でひとり静かに磨き上げた狂気は、もはやマグナムに込めてどこかへぶっ放す以外になかったわけで、撃つ先はわりとどこでも良かったような感があります。あまりにも見当違いな所でなければ。
最初はちょっと矛先を迷ったりもしましたが、結局彼はそこそこの見当をつけてぶっ放す事ができ、また冴えないドライバー仕事に戻っていきました。ラストシーンでの主人公は、憑き物が落ちたようにさっぱりした表情をしています。「落ち込んだりもしたけれど、私は元気です」的な感じでしょうか。

もちろん、ポン引きを何人か殺した所で汚濁の街が奇麗になるわけがありません。トラビスにもそれは解っていたはず。ある意味幼稚とも言えるはなはだハタ迷惑な方法ですが、彼にとってそれはいわば一種の排泄行為だったのかもしれません。言葉では決して表現できない差し迫った何か、義務感と表裏一体の欲望を吐き出すための排泄。
決して言葉に頼らないデニーロの演技は、偏執狂的なまでの緻密さでそれを表現し切っています。

ちなみに、超絶キュートな少女売春婦を演じたジョディ・フォスターは当時、役柄の年齢そのままの14歳だったとか。

てめえらブッ殺す!

まだ見た事ないという方、ぜひ一度ご覧あれ。14歳のジョディはめんこいぞ。
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by umi_urimasu | 2004-06-28 20:56 | 映画 | Comments(0)
explorerやネスケだと表示がおかしい
原因不明。safariでは問題ないんですが。何とかしたいな。
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by umi_urimasu | 2004-06-27 17:51 | まぞむ | Comments(1)
手塚治虫と出崎統の切っても切れぬ関係
NHK 『火の鳥』 アニメ編

ちょっと前に見かけたら太陽編をやってたんでその話を。
これは昔からシリーズの中でも特に大好きな巻でした。人間からワーウルフになったクチイヌが、時の朝廷と狗族との戦いに巻き込まれて辿る数奇な運命。まさに大河ロマンの王道です。さらに仏教VS自然神のサイキック・ウォーという構図、しかも仏教側がヒール扱いというのが子供心にも激しくツボだった。

しかし、こと手塚作品をアニメ化すると、なぜか必ずと言っていいほど出崎統チックな絵柄にされてしまいます。それはもうコーラを飲んだらゲップが出るっていうくらい確実に。今回のTV作品も例外ではありませんでした。
あれはなぜなんだろう。デザインが杉野昭夫氏だからか。ではなぜ杉野昭夫氏以外の人を起用しないんだろう。
個人的に、あの劇画的な絵柄は手塚作品にあまりマッチしないと常々感じているのですが。りりしい目鼻や彫りの深い眉もけっこうですが、そのおかげで手塚的なまるっこい可愛さや女性キャラクターの色気がかなり削がれてしまっている事の方がもったいないと思います。
……。

って、太陽編の前は異形編やったんかい! orz
それこそ見たかったのに。


出崎チック云々はともかく、異質な作風どうしを掛け合わせるというのは、パロディとして見る分には面白いものです。ギャップが大きければ大きい程、滑稽さも増加するわけで、例えば手塚マンガを荒木飛呂彦風にしてみるというのはどうか。
ヴァニラ=アイスみたいなヒョウタンツギとか出てきそう。
もしマンガの画像からキャラクターやオノマトペを分離・オブジェクト化して「○○調の絵柄」に交換できるツールがあったら……。とりあえず何するかな。

どらえもんを黒田硫黄風に。

北斗の拳を松本太洋風に。

ベルセルクを藤子F風に。

キャプテン翼をゆでたまご風に。



……いろいろと危険すぎる気がする。
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by umi_urimasu | 2004-06-27 17:34 | アニメ・マンガ | Comments(0)
気になるあの子はメガテク娘、あいつの彼女もメガテク娘
『攻殻機動隊 Stand Alone Complex』

全26話。
日本のテレビアニメーション史上に類を見ないクオリティの高さで描かれた社会犯罪劇。

テーマはやはり電脳と人間の定義についてですが、TVという媒体の特徴を考慮してか、映画とも漫画とも異なるアプローチを取っています。映画のようにメタ虚構性にさほど拘泥せず、原作漫画のようなSF的ガジェットに対する執着もありません。むしろ、拍子抜けする程オーソドックスな犯罪ドラマに仕上がっています。
登場する小道具類などもいわゆる未来的なデザインを極力避け、銃や車などはほとんど現代そのまま。「機械はその存在目的から逸脱したフォルムを容認しない」という感じのたいへん生真面目な未来観が適用されているようです。

ただし「情報」だけは、現代とは桁違いの規模と重要性をもって攻殻の世界全体に浸透しています。革命的なテクノロジーである電脳技術が、まるで我々がTVを見たり電話をかけるのと同じようにごく当たり前に利用される時代。攻殻はその描写をさりげなく、しかし細部まで徹底して行っているのです。そのおかげで我々は、その場しのぎの空想ではない「本当にあり得る未来」の片鱗に触れることができる。
これはTV版の演出における基本姿勢のようですが、ここまで徹底して作り込むにはかなり綿密な設定考証を要するはずです。二時間ちょっとの映画ならともかく、26話分のシリーズでそれを完遂した事には感嘆あるのみでした。

基調ストーリーは「笑い男」というハッカーにまつわる犯罪劇であり、隠れた巨悪に立ち向かう公安九課の活躍を描くポリス・ドラマ。しかしそれだけではなく、シリーズものの利点を生かして、サブエピソードの方にも様々なテーマが盛り込まれています。
犯罪の話だけに留まらず、精神そのものさえ書き換えたりコピーしたりできる時代の人間心理にまで分け入って、人情ドラマから社会問題、電脳化によるアイデンティティ喪失問題に至るまで様々な切り口を披露してくれました。個々のエピソードの完成度もかなり高く、脚本、演出、映像、どれもほとんど崩れが見られません。最近のTVアニメとしては異常な程に質の管理がしっかりしています。かなりお金かかってるんだろうなぁ。
人物については、素子よりもむしろ脇役の描写にTV版独自のこだわりがあって、バトーやトグサたちのプライベートな顔が見られるのが楽しかった。しかし断トツはやっぱ課長ですね。課長シブすぎだよ。

アニメ作品は年間何百タイトルも作られているらしいですが、2003年の作品群から一本だけおすすめを選べと言われたら迷わずこれを挙げます。

というかむしろこれしか見てなかったし。
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by umi_urimasu | 2004-06-26 20:21 | アニメ・マンガ | Comments(1)
理想のSFーー山田風太郎の世界
甲賀忍法帖

凄え。
週刊海燕さんの強力なレビューにつられて初めて読んだのですが、完腐なきまでにぶちのめされました。例えるなら、サップに秒殺された曙の心境。全くもって解説無用です。面白いものを「面白い」と指摘するだけの解説ほど無益なものもないでしょう。

でも、無益と知りつつやっぱり書くだけは書いてみる。

これはある意味、純性の「SF」と言ってよい作品ではないかと思います。理由は、とあるシンプルなルールに従って非常に堅固な架空の歴史を作り上げた小説だからです。
もちろん嘘っぱちの歴史には違いありません。しかし、歴史というものは例外なく嘘っぱちです。学校で教わる史実は細部にわたって矛盾なく成立する因果関係を要求しますが、それが本当に正しいかどうかは、時を遡る術がない以上厳密には誰にもわからない。一方で、SFはある仮定に従って嘘の世界を構築し、その世界と現実世界との間に生じるギャップの意味を問うものです。この意味では、極言すれば歴史はSFであると言ってもいい。
ただし、SFは歴史のように現実的な事物だけを扱う必要はありません。SFは作品の中に何らかのルールを設け、それに従うのみです。そして山田風太郎作品の世界を縛るルールは「大衆娯楽たる事」であり、「甲賀忍法帖」は完璧に、それはもうため息が出るほど完璧に、このルールに従っているのです。いかに荒唐無稽であろうと、いかに史実と食い違っていようと、風太郎ワールド的には一片の矛盾もありません。文体も設定もストーリーもキャラクターも、作品を構成するあらゆる要素がこのルールに従い、妖術と怪異に彩られた闇の日本史を作り上げるために最大級の貢献をしています。そこにはどんな小さな不純物も含まれません。
娯楽の醍醐味を余さず注入した、娯楽だけが支配する日本史のダークサイド。科学も宇宙も出てきませんが、これは「娯楽」というキーワードで世界を捉えるという思考実験の非常にスマートな成果と呼べるのではないでしょうか。

ちなみに、SF嫌いな人でも全然大丈夫ですよ。この作品をSFとみなす必要などこれっぽっちもないので。
我々が確かに言える事はおそらく唯一つ、

「面白いから読め」

これだけです。
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by umi_urimasu | 2004-06-25 18:12 | 本(others) | Comments(0)
ラノベがラノベであるために そのいち
ちょい大きめに振りかぶってラノベ論でもブってみる。

「大人が読むものではない」という印象が強いライトノベル。僕自身もその固定観念は拭い切れません。しかし、それは必ずしもラノベが幼稚な小説である事を意味しないと思います。この種の小説は単に、まだ未発達なジャンルというだけなのかもしれません。

いわゆるラノベ的要素というものは、大人にとっては「子供っぽい」という気恥ずかしさを喚起します。これはラノベの中に、主たる読み手であるティーンエイジャーの未成熟な願望・欲望を満たそうとする要素があからさまに含まれるからです。しかしそれは、要素自体が幼稚なのではなく、加工も租借もせずにそのままさし出すやり方こそが幼稚なのではないでしょうか。どれとは言いませんが「何とかもまたいで通る」某ネアカ美少女魔法使いとかは、まさにこの幼稚さに相当すると考えられます。いや、実はよく知らんのだけど。
もしそれがファンタジーであるのなら、描くべきものはきっと露出度の高い服を着た頭の軽い女の子なんかではありません。ファンタジーは、我々の世界にまだない新たなものを生み出そうとする行為であり、虚構を通して現実の中に隠された脅威に新しい意味を与えようとする試みのことだと思います。人によって異論はあるかもしれませんが、ともかく自分はそう定義しています。そのための唯一最強の武器は「想像力」であり、だからファンタジーと想像力は不可分のものなのです。
一方で、じゃああのどらまたは何なんだと。単にガキのズリネタに過ぎないのかそうではないのか。「少年マンガ」でも「児童小説」でも括れない何か、新しい独自の何かが描かれて初めて、ライトノベルというジャンルは存在を許されるはずではないのか。ならば、それに値する何かが描かれた作品はいったい幾つあるのだろうかーー。

指輪物語やゲド戦記がそうであるように、小学生から床屋の爺さんまであらゆる世代を虜に出来るようなライトノベルが早く出てこないものか。そんな淡い期待を抱いて、時々ラノベに手を出しては引っ込める日々。
誰か「これぞ」という本を推奨してくれませんか。おねがいブロガー。
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by umi_urimasu | 2004-06-24 22:51 | 本(others) | Comments(2)
dish, wash, brash, blog... 「あなた、背中が煤けてるわ」
『マルドゥック・スクランブル』 冲方丁

凄い力作。でもSF大賞をあげた人には失礼ながら、あんまりSFっぽくないなー、という印象でした。おそらく著者自身、特にSFという意識で書いてはいないんじゃないでしょうか。レオンにサイバーパンク風の上着を被せて「敵は海賊」的な味付けを施したジョン・ウー作品、みたいな感じ。ストーリーはかよわい美少女が悪を討つ系です。ロリータ娼婦登場! →車内で合体!→爆殺!→電脳化!→おトイレ盗撮! ターミネーターとだって斗っちゃう。スタープラチナ級の超人ガンアクションで。
さすがにおといれ盗撮はどうかと……。ある意味サービスなのか?

自分にとって目新しかったのは、作品にみなぎる「燃え」の心。敵と戦い勝利する事によって高揚するという少年ジャンプのような「燃え」の精神が普通の現代小説で俎上に乗る事などはまずないはずですが、ラノベにおいてはその限りではないと。危機を切り抜ける主人公に感情移入する事で得られるカタルシスは、ゲームやコミックで味わえる勝利の高揚感に近いものです。ギャンブルシーンにしても同様。ポーカーの役さえ知らない完璧なギャンブル不具者の自分でさえ「奇跡的に勝っていく」展開に高揚してしまう仕掛けは、まさにアカギやカイジのあの感覚でした。

「マルドゥック・スクランブル」はいわゆるライトノベル的な子供っぽさをかなり抑えている方ですが、たとえば人間ドラマに混じる教訓っぽさや机上恋愛的な甘ったるさは多少残っています。主人公の少女と相棒の鼠の間にほのかならぶらぶ波動が飛び交ったり、渋い女ディーラーが格好良く人生訓垂れたり。さらに、サイバネ美少女がカジノへ乗り込んでわらしべ長者的に100万ドルをゲットするとかいった無鉄砲な展開も。尻がこそばゆくなりそうだ。
そこらへんが気になってどうも安心して読めない、そんな時には。

「消してくれっ…俺のっ…フラッシュバックをっ……!」 ざわ…ざわ…

と脳内で福本化しつつ読むとけっこう笑えて便利です。「カ、カードが光る?!」とかでもよろしい。

文体については、どうもこなれていないというか、少なくとも非常に流麗な文の使い手ではないようでした。言葉づかいが少し変。捕物帳じゃあるまいし、ガンシューで「〜するや」というフレーズはどうかと思う。
あと、そこはかとなく煙たいモラリズムを感じる部分も少し。売春イクナイとか虐待児童カワイソとか、現実の社会悪や暴力に対する作家自身の義憤的感情がそのまま作品上に顕われている気がするのです。なんとなく、ですけど。主義主張の是非はさておき、娯楽作品の中にリアルでのそれを「未加工で」持ち込むのは注意を要することだと個人的には思っています。娯楽性の本質はセックス&バイオレンスであって、それを追求できるのは舞台が虚構だから。もしその境界を作者自身が破るのであれば、その事自体が作品内で何らかの意味を持つべき必然性を要求するはずです。単にリアル憤怒がそのまま漏洩しただけというのは勘弁。


というわけで総評。SFとしてではなく、ラノベとしては十分面白いものという事で落着しました。ただし、これよりつまらないものばかりならラノベなんか金輪際読まなくていいや、という下限値をも与えかねない諸刃の剣。
ラノベを読むのもけっこう危険です。
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by umi_urimasu | 2004-06-24 22:30 | 本(SF・ミステリ) | Comments(0)
奈須きのこ 増殖中につきーー
『空の境界』

といっても昔のネット版しか読んだことないんですけど。
その限りで評するなら、いわば"裏"月姫でしたね。月姫を、ほぼ同じ素材を流用して再構成したようなもの。
個人的にはシンプルな分だけこちらの方が月姫よりも好みです。萌えキャラやアクションをどっさり詰め込んだせいか今いち均整の取れてなかった月姫に比べて、空の境界ではそれぞれの要素があくまで控え目に、抑制されて配分されている。こういう無駄のない構成の方が、基本的にはエンターテインメントとして適切だと思うのです。ただし上で述べた通り、素材、内容ともに本質的には月姫とほとんど一緒。書かれた順番はどちらが先か知りませんが、真に新しい何かを求めるというわけにはいきません。

内容において月姫との差をあげるなら、複合人格者や感覚異常者の心理を多少丁寧に描こうとしている点でしょうか。殺人嗜好症の少女や無痛症のPK少女などに対して「家系のせい」「事故のせい」という原因の提示だけで終わらせずに、「そういう人格が実際にあったとして、彼らは何を考えどのように振舞うのか」がわりとあからさまに語られています。
もちろん我々は骨の髄まで常人ですが、少なくともそうした特異なパーソナリティをもつ彼らの情動を想像しようと試みることはできる。頭を使う必要はありますが、モテモテ主人公がきったはったの大活躍っ的な月姫などよりは多少手強い分面白い読み物といえるでしょう。

ただし、エセ科学やオカルト的な説明の浅薄さは正直勘弁して欲しかった。月姫でも同じ浅さを感じましたが、雑学・教養的な興味を全く喚起してくれません。伝奇ものでこういう詳細設定に固執したいのなら、せめて帝都物語ぐらいまで徹底して欲しいと望むのは贅沢か。もちろん造語のセンスなどは凄いと思うんですけどね。

というわけで、「次の作品こそ読んでみたい作家」脳内リストに入れておきます。
ただし、幾ら何でも愛蔵版9800円は横暴ぞなもし。
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by umi_urimasu | 2004-06-24 16:14 | 本(SF・ミステリ) | Comments(0)
"デジタルノベル界のジョン・ウー"ーー虚淵玄
彼はその一筆に賭ける修羅

てなわけで、未プレイの方々向けに電脳上海ノワール「鬼哭街」のゲームレビューを書いてみる。

デジタルノベルとしては秀逸な出来映えです。
まずビジュアル、音楽、どちらも過去のニトロプラス作品を凌ぐ美しさ。そして鋭利で重厚なテキスト描写力、サイバーパンクな世界観、非情な中国裏社会の暗闘、香港映画を彷佛させる武闘アクション、さらに狂気の愛憎劇。これら全ての要素をここまで隙なく織り合わせたノベルゲームが、この業界で他に幾つあることでしょう。
サイバーパンクでありながら修辞に長けた装飾的文体というのは一見ミスマッチなようですが、この作品に限っては思いの外よく合っています。過去のニトロ作品で顕著だった銃器描写への妙な執着も削ぎ落とされ、一般性も大幅に上昇。ボリュームが小さいという一点を除けば、デジタルノベルとしての質は「ファントム・オブ・インフェルノ」と同等かそれ以上のレベルに到達したと言ってよいのではないでしょうか。
ただ、このように褒めちぎって悔いの残らぬ傑作ではありますが、少々「燃えすぎ」な描写は人を選ぶので要注意かもしれません。特にアクションシーンは、マシンガンの弾雨をポン刀で弾き返すわ、剣速が音速超えるわ、分身の術は使うわで、もはや何でもアリ。そういう無茶にも抵抗のない方や「北斗の拳大好き」という人はきっと相性ばっちりです。
ちなみにエロゲー嫌いな人でも大丈夫。これエロゲーじゃないですから。ここまで高純度な娯楽作品になれば、本質的にエロもグロも関係ありません。一応キラキラシールみたいなもんが貼ってあったりなかったりしますが、気にする必要なし。「英雄本色」と「ニューロマンサー」と「リベリオン」を足して三で割ったが如き珠玉のサイバー武侠片に、存分に燃えて下さい。


【ビジュアルノベルに選択肢は不要か?】

ちょっとレビューという趣旨からは外れますが、ついでに論じてしまいます。
この作品から「選択肢」を一切省いた事は、作品のためには良いチョイスだったのかもしれません。おかげでテキストの質が高まったのは確かなようですし。しかし自分で選べるものが一つもないというのは、正直言ってやっぱり少しつまんなかった。
個人的には、物語にストーリー分岐が存在するという事は、それだけで作品世界に奥行きを与えてくれるものだと思います。あり得たかもしれない複数の可能性をあからさまに提示する事で、作品世界をより細部まで、多角的に見せる事ができるからです。プレイヤーに与える情報の量や順番をコントロールできるという事は、そこに何らかのゲーム性を持たせる事ができるという事でもあります。
また、選択肢は読者自身が能動的な係わり方をする事で物語への没入を促す仕掛けでもあります。「鬼哭街」は選択の自由を無くした上、さらに主人公に感情面で特別な設定を与えたため、感情移入の容易さという意味ではどうしても「ファントム」に劣らざるを得ないわけです。「ファントム」の吾妻玲二がフォーマット済みのまっさらな主人公であるのに対し、コン・タオローは最初から復讐心というプレイヤーのあずかり知らぬ動機を抱えて登場しますし、そもそも徹頭徹尾ルイリーの事しか頭にない重度のシスコンです。半歩ほど引いた視点から物語に接しなければならない歯痒さはどうしようもありません。
しかし、ノベルゲームの良し悪しは感情移入が容易か否かだけで決まるものではありません。結果として作品の完成度が高く保たれるのであれば、主人公への没入度は低くても構わないという考え方もあります。鬼哭街はマルチシナリオのメリットを自ら捨ててしまいましたが、代わりに小説としての統一性は高くなりました。それはそれで、個人的には大歓迎な事なのです。クリティカルな選択肢の一つや二つぐらいは残してくれてあった方が楽しいかなーとは思いますが。
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by umi_urimasu | 2004-06-23 18:09 | ゲーム | Comments(0)