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「幼年期の終わり」アーサー. C. クラーク
60億人のあっち向いてホイ

人類の終焉をクラークらしい生真面目な筆致で描いた、地球滅亡のスペクタクルSF。
人間の精神が、ある世代を境に人類的規模で変質し始め、最後には宇宙的知性に統合されていくまでをディテールにこだわって描きます。要するに「人間はどこから来てどこへ行くのか」というテーマですね。ちょっと無理ねーか? という気もそこはかとなくしますが。

SFに限りませんが、小説なり何なり虚構にたずさわる者が選ぶテーマは、大きく二つの派にわけられるのではないかという気がします。「まだ無い何かを求める」派と「手で掴めるものだけを取る」派です。空想主義に対する現実主義と言ってもいいかもしれない。もちろん両者は入り混じっていますが、宇宙と人類の関係を語ろうとするときのクラークは限りなく前者だと思います。
けれど、人類の行先を脳内でぐつぐつ煮詰めるみたいな話は昨今では全く流行りません。そんなこと考えてる場合じゃねーとみんな思っているのかもしれません。僕自身もそんな四角いスタイルに付き合う気はさらさらなくて、クラークだって特に好んで読むというわけではないです。それよりは、さらりまんブラックなスーツ姿で怪しい混ぜ物でブットンで単分子ワイヤで夢幻の住人ごっことかそういう方が好みです。どうも根っから快楽主義者らしい。

「宇宙の果てはどうなっているか」とか「人類の限界のその先は」という気宇壮大なテーマを考えるとき、そこに何がしかのロマンを感じる人はどのくらい居るものでしょうか。それなりに居るかもしれません。クラークもきっとそうなのではないかと、根拠はありませんが思っています。それは作品の題材の選び方からも想像できるし、「幼年期」のクライマックスのくだりにもそうしたロマンの匂いがするからです。記憶が少しあやふやですが、文章もやや叙情的な方向に傾いているようでしたし。
でも僕はそういうロマン回路のない人間です。単に知性が足りないだけなのかもしれませんが、それはさておき。
テーマ的に類似した「2001年宇宙の旅」を引き合いに出して言うと、「人間を越える存在」を扱いながらも、そこに具体的な感情を全く介在させず、説明さえも完全に排除したキューブリックの映画の方がクラークの小説版よりも好きな方です。その方が、「異物」から受ける衝撃がそのまま伝わる気がする。人間を越えた存在を人間のもてる概念で説明することはしょせん不可能だし、ならばいっそのこと、可能な限り人間性を排除した描写の方がよりダイレクトにそれを表現できるのではないか?と思っています。
もちろん個人の嗜好の問題なので、良し悪しの判断はできませんが。

あと「幼年期」で不思議なのは、ごく普通の人々についての描写があまりないことです。これってちょっと偏っている気がする。登場人物は皆かなりのインテリですけど、大多数のパンピーの末路ってのも重要な描写対象だと思うのですよ。

  「オーバーロード? なにそれ。ふーん。ねーちょっと聞ーてよー昨日さあ」
  「まっ何てハレンチなんざましょ」
  「たけやーさおだけ」

みたいな人々にも、少しでいいから地球滅亡の前に触れてあっても良かったはずなのに。主題にそぐわないといわれればそれまでですが、主題に対してものわかりのいいキャラクターだけしか登場させないというのは、どうもお上品すぎるように感じてしまうのです。
かといって、もしこの「幼年期」をお下品にやったとしたら……やっぱ「幻想の未来」みたいになってしまうのだろうか。
by umi_urimasu | 2004-08-26 00:43 | 本(SF・ミステリ)


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