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日本はいつから「未来」であることをやめたのか?(サイバーパンク的な意味で)
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「ブレードランナーやニューロマンサーの頃って未来の日本がやたら流行ってたけど、あれってなんで廃れたの?バブルがはじけたから?」「いや、アニメやマンガがあたりまえになりすぎて目立たなくなっただけだろ」みたいなことをアメリカのSF好きな人たちが言っています。日本のSFファンにとっても面白い話題なのではないでしょうか。で、少し訳したりしながら僕も考えてみました。
米国のサイエンスフィクションはかつて、ブレードランナーからニューロマンサーまで、日本に魅了されていた。 日本のものはすべて、アメリカの小汚い美意識よりもクールで洒落ていて輝かしく見え、日本は支配者となるべく運命づけられた存在だった。(中略)
ウィリアム・ギブスンが「ニューロマンサー」の執筆中にブレードランナーを見に行ったというエピソードの中で、彼は、映画が描く未来のヴィジョンと彼の小説のそれがあまりにも似すぎていたことにショックを受け、ものの数分で映画館から飛び出したという。

「現代の日本はまさしくサイバーパンクだった。 日本人自身もそれを知っており、そのことを喜んでいた。 渋谷を初めて目にしたとき、私をそこに連れて行ってくれた東京の若いジャーナリストのひとりが、まばゆいばかりのネオンサイン──塔のようにそびえ立ち、のたうち流れるコマーシャルの光──に濡れたこう顔で言ったことをおぼえている。『ほらね?ほらね?これがブレードランナーの街なんですよ』 その通りだった。まったくそれは疑いようがなかった。」 ──ウィリアム・ギブスン
io9 - When Did Japan Stop Being The Future? より)
こう聞くと、わが国ながら、なんかとてつもないところのようです。実際には、アメリカの人々が夢想した未来の日本とリアル日本の姿はかなりかけ離れていたでしょう。しかし彼らは夢想の街にこそ熱狂したのであって、日本が実はどんな所であるかについてはけっこうどうでもよかったのかもしれません。ヘンな日本でも平気で描いてるし。

io9の記事は、はっきりした因果関係があるとは言ってないものの、サイバーパンクの流行と同時期の社会現象として日本経済のバブル景気をあげています。1980年代初期にマクロスやヤマトなどのアニメが米国に輸出されはじめ、米国のコミックファンがMANGAを発見し、そしてブレードランナーとニューロマンサーが登場したことで、アメリカ人にとっての「未来的な日本像」が定着した。以後、1980年代後半~1990年代前半にかけて多くの作品がその影響を受けたが、バブル終了の頃にはサイバーパンクは目新しくなくなっていた。しかしバブル崩壊後も日本のポップカルチャーだけは元気で、米国の作品は継続的にその影響を受けつづけている。アニメについてはだいたいそのような流れらしいです。

では、小説の分野はどうだったんでしょうか。ハヤカワの「80年代SF傑作選」の解説を読むと、米国の小説界において作家、編集者、批評家の誰が誰と組んで何を書いたかがこまごまと書いてあります。いわば個人と個人を人脈でむすんだサイバーパンク・ライターズ・ツリーです。ただし残念ながら、日本のことについては何も言及されていません。たくさんのサイバーパンク作家が、怪しげな(実像とはかけはなれた)日本趣味をとりいれるのに熱心だったことは作品からもうかがえて、それはつまり、みんながそうするだけの理由があったからだろうと思うのですが。

SFシーンではなく社会学的な方向から流行りすたりの分析をしている人もいます。東浩紀による「あいどる」の解説はそのようなものです。この記事のお題からすれば、これがもっとも答えに近い言説なのかもしれません。でも、人間関係とか版元の意向とかいった個人レベルの要因をまったく無視した一般論でひとりの作家の作風や動向がちゃんと語れるのか、という疑いを僕はぬぐえないのですが。
一応、簡単にいうと、当時不況でへこんでいたアメリカから見た経済大国日本の羽振りのよさが過剰に進んだ情報技術国家のイメージを生んだ。一方で、1970年代の反体制文化やニューエイジ思想からくる東洋への憧れが前近代的で神秘的な日本のイメージを生んだ。この二つがギブスン作品誕生の条件である。また、ギブスンが日本で熱狂的に受けたのは、彼の幻想が1980年代末の日本社会の肥大した自意識を肯定してくれるものだったからだ。という主張のようです。ほんまかいなこれ。
東氏はギブスンのオリエンタリズム(地理的に遠い土地の神秘化)はグローバル化後の今では機能しない、だからギブスンはもう古い、ともいうんですが、そういうものでしょうか。僕の中では、もともとはるか遠いアジアのどこかの未来暗黒街への憧れは、グローバル化しようがしまいがさほど変わんないような気もします。

ギブスン以外で日本テイストを取り入れたサイバーパンク系の作家といえば、僕が思いつく中ではニール・スティーヴンスンがいます。「スノウ・クラッシュ」の主人公は日本刀をかついだアジア+黒人ハーフのハッカーで、メタバース内でニッポニーズのビジネスマン剣士と斬りあいを演じ、残心(ザンシン)だのケンドーだのについて講釈を垂れていました。実剣で人を斬る際の注意事項を得々として語るなど、あんたいったいどこでそのネタ仕入れたんだよ、と呆れるような部分もあります。「クリプトノミコン」では比較的まともな日本人も描くようになっていましたが。あともちろん、親日家としても知られるブルース・スターリングです。「招き猫」という短編は、日本的美徳らしきものがかなりそれっぽく書かれていて、それだけにあまりにも翻訳小説的な語り口のギャップがきわだち、日本人読者にとってはもう「果てしなく微妙」としか形容できないものでした。文化の壁は厚い。

最後に、アメリカ人の想像する未来的日本像が廃れたということについて、日本びいきらしい対抗意見を。
The Future is Japanese. Really. - Haikasoru
Haikasoruのエディター nickmamatas 氏が言うには、「経済成長が停滞したから、日本がSF的未来の舞台としての座をしりぞくことになったのだとは思わない。それよりも単純に文化圏の中での競争で優位になれたからではないか。その証拠に米国の大手書店を見たまえ、マンガコーナーには日本のマンガがあふれている。20年前の本屋で「日本のマンガ売りたいです」などと言おうものなら、精神病院に放り込まれかねなかったのに。 もし、日本がかつての未来像のように見えないとしたら、それは私たちがすでにその未来に生きているからだ」だって。ぜひ、その心意気で翻訳出版がんばっていただきたいです……。飛浩隆と伊藤計劃のUS版もどうぞよろしゅう。

余談。
珈琲を淹れさせてみたのだが・・・‐ニコニコ動画(ββ)
こういう動画を見たりすると日本人未来に生きてんなーという気もするけど、欧米では動作が人間らしすぎるロボットはキリスト教的にアレとかでかわいがりにくいのでは、と思ったら全然そんなことなかった件。
『コーヒーを淹れさせてみた』の海外の反応の勝手訳
国は違えどOTAKUのMOEに垣根なしか。よいことじゃまいか。

(追記)
ブクマコメントを眺めていて、インドのSF小説って今どういう感じなんだろうという疑問が浮上。あれだけ人口多いしIT系も盛んな国だから、それなりに書かれてるんじゃないかと思うんですが、ちっとも噂を聞かないし邦訳作品もほとんどなさそう。検索してみたところ、かろうじて「カルカッタ染色体」というのが見つかったけど、これはあまりSF的じゃないらしい。謎多きインドSF界の実態。いつか調べてみよう。
「ムトゥ踊る科学者」とかそんなようなマサラSF映画もひょっとしたらあるかもしれない。探してみよう。
(追記2)
特集インドSF - 本とか音楽とかニュースとか
現代インドSFの注目作家いろいろ。活発な業界のようで重畳至極。しかしそれよりもcatalyさんの海外SF情報の網羅ぶりに驚愕した。

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ギークコントってお笑いジャンルとしていけるかも。食エナーイヨ!It's USB Memory!

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by umi_urimasu | 2009-06-22 22:07 | まぞむ


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