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昔々或る処に、ホワイトドールという遺跡があったとさ
∀ガンダム


しょうこりもなくまた見直しています、ターンエー。

小説でも映画でも、「狭く深く」消費する傾向は昔から変わりませんが、ターンエーの場合それがあまりにひどいです。何故なんだろう、と自分なりに少し考えた理由を。
ひとつは語り口の柔らかさです。ターンエーに出会うまで、終盤の皆殺しなど当然みたいな感のあるあのガンダムを、こうものんびり大らかに楽しめるようになるなどとは思ってもみませんでしたから。面倒なニュータイプ論やら少年期の屈折といった「汚れ物」をばっさり捨てたことによる快活で清澄な雰囲気。「不愉快でないガンダム」という希有なサンプルを手に入れて、有頂天になっている。そんな感じです。

しかし、それだけではここまでリピートするにはまだ弱い。最も大きな理由は、やはりターンエーの物語がもつ普遍性にあるのではないかと今は思っています。この普遍性とは、戦争というテーマや人間関係の描写に見られるリアリティの事ではありません。そうではなく、まさに日本の昔話がそうであるように、ターンエーの物語が「典型的」である事によっています。ストーリーの骨格はシンプルで、誰が何した、という事実の連鎖でしかない。しかしその途中には多くのサブドラマが内包され、キエルとディアナのような取りかえ子話の亜種や、ロランのように女装して敵をあざむく少年戦士、さらに竹取物語のパロディなど、古典的な物語アーキタイプの複合になっている。これは、何度でも再編・再話が可能な口承の説話などに近い構成です。いつ聞いても、何度でも楽しめる昔話というものは、含まれた寓意や個人レベルのリアリティによって生命を保たれているのではなく、物語の典型が持ち得る魅力そのものによって風化を免れているのではないでしょうか。それこそがターンエーの到達点だと思います。暴言かもしれませんが、ターンエーは強いて戦争物と捉えなくてもいいし、ある意味ではもはやロボットアニメでさえない。ましてや癒しがテーマだの過去のガンダム全肯定だのといったフカシなぞはどうでもいいんです。
もちろん、演出が恐ろしく巧妙なのもターンエーの楽しみのひとつ。見るたびに新たな発見があります。今回も冒頭の第一話、二話あたりで、グエンやキエルたちの内面や人間関係を、微妙すぎるセリフの待ちやカット切り換えのタイミングなどで表しているのに気づいて絶句してしまいました。一度は全編を見てキャラクターをしっかり掴んでいないとまず分からない、極めて微妙な演出です。世界観を説明し、物語を始めながら、同時にこのキャラ描写をやっているとはいったいどういう……。
ほとんど神業に近いですよ、これ。第一話があんまり記憶にないという人は、今一度じっくり見直してみてはいかがでしょうか。
by umi_urimasu | 2004-06-23 16:30 | アニメ・マンガ


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