ウィリアム・ギブスン
ウィリアム・ギブスンと路地裏フェチズム

ギブスンをちょろちょろ再読。ギブスン嫌いな人は「コラージュである/コラージュでしかない」事を批判するらしいんですが、コラージュ大好きな人にしてみればそれこそがギブスンの表現の本質であって、コラージュが激しければ激しい程快楽の度は増すのだから、批判されてもおそらく決して改心しますまい。極言すれば物語なんか凡庸で全然かまわんと思ってさえいます。むろん儂もその一人じゃよ。ニューロマンサーやクローム襲撃あたりの初々しさも良いですが、一方でモナリザ・オーヴァドライブぐらいに「物語」の技術が上手くなってくればそれはそれでまた楽しめるわけで、つまり救いようがない。

さて。唐突ですが、自分は路地裏フェティシストであります。これが、ギブスンの作品群と自分の嗜好が波長を同じくするところの根源的ファクターではないかと考えている次第。路地裏フェチというのは和洋を問わず、狭い路地裏、ごてごてした無様な建造物、そこでモグラのように棲息する人々、ゴミ溜めに盛られたジャンク、などといった「都市の汚濁」の有り様になぜか魅惑され、そうした情景の細部に異様なまでに固執する人種です。混沌の寄せ集めで世界が出来ているという状態を想像することで快楽を覚え、九龍城砦などの廃墟写真ともなれば見ただけで「萌え死ぬ」と絶叫したりするのです。

その心理学的解釈はさておき、ギブスンのスプロール系SF作品には確かに、猥雑で危険な路地裏の魅力が詰まっています。いかにサイバースペースの概念が斬新であったにせよ、それが小ぎれいなオフィスビルの端末からしかアクセスできないものであったなら、我々はあそこまで興奮しなかったに違いありません。

ギブスン自身、サイバースペースネタから徐々に離れていったあともジャンクコラージュとしての「街」の細部を描く事には依然こだわっており、ヴァーチャルライトやフューチャーマチックはまさにそういう細部をほじくり返すが如きマニアックな作品群です。こうも特殊な趣味性をオーヴァードライブさせ始めるともはやSFかどうかさえ曖昧になり、そんな事に頓着しない好事家のみがギブスンの都市ヲタぶりに特異なフェチズムを刺激されて喜悦を覚えるのです。

むろん儂としてはそれで十分ですから。

マイアミ、若い衆、飲込みが遅い。

ところで、コーヒー飲む………。

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by umi_urimasu | 2004-06-22 16:29 | 本(SF・ミステリ) | Comments(0)
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