「くノ一忍法帖」山田風太郎
a0030177_2330751.jpg人技の域を越えた面白さ。文章が神すぎる!
天才ってのはこういうのを言うんだろうなあ。


時は元和元年。落城間際の大阪城から救い出された千姫の侍女の中に、五人の女忍者がひそかにまぎれこんでいた。彼女たちは真田幸村の密命を受け、豊臣家再興の祖となる秀頼の子種をその腹に宿していたのだ。それを知った家康は、今度こそ豊臣の血を根絶やしにせんものと半蔵配下の伊賀忍者をさしむける。襲いくる伊賀鍔隠の精鋭に対し、ふくらんだ腹を抱えて迎えうつ五人のくノ一。凄惨無比の死闘を最後まで生き残るのは、男か、それとも女か───。


昭和生まれで「くノ一」の意味を知らない人は、この日本にはまずいないでしょう。その言葉を世に広めたきっかけが山田風太郎の「くノ一忍法帖」他の忍法帖シリーズであるという事実も、それなりに有名でしょう。ただし、元の小説自体はその単語の知名度と同じほどに広く読まれているわけではたぶんない。このためか、世間一般でいう女忍者のイメージとこの作品で描かれているオリジナルとの間には、かなり大きなギャップがあるようです。

映画やテレビでおなじみの女忍者像──紫頭巾でうっふ〜んとか──は、じつは山風の描く女忍者にそなわった鮮やかさ、鋭さ、妖しさ、艶めかしさの百分の一すらもそなえていません。
ってのは言いすぎかな。しかし少なくとも、僕が受けたイメージの落差はそれぐらい激烈なものでした。この作品のおかげで、僕は自分のイメージがオリジナルに比べてどれほど壊滅的に貧困であったかを思い知って、もう自分で自分に呆れはてた。なんとふがいなき我が想像力よ。


風太郎が描いた本来のくノ一像は、たとえば水戸黄門に登場するかげろうお銀みたいなのと同じイメージで扱ってよいものではありません。もっとずっと美しく、おぞましく、力強く、そしてはかない存在です。
もちろん水戸黄門がダメだと言うつもりは毛頭ないんですが、ポイントはそこじゃなくて。映画やテレビの表現は大抵、あらかじめほとんど毒が抜かれていて、本を読む者にとってはそうした解毒ずみのイメージしか知らない(ことに気づかない)というのがマズいのです。
これはたぶん「読み手としての性能」にかかわる問題だと思う。人畜無害な想像力では、つまらない読書体験しかできない。面白い本を面白く読むには、それなりに鍛えられた想像力を持っていなくてはならない。ではそうなるためにはどうすればいいか。
答えは簡単、有害な本をたくさん読めばいい。

今、僕の脳裏にはかげろうお銀に代わって真田方のお由比やお眉の戦う姿が鮮烈に浮かんでいますが、これがすなわち、僕の読者としての性能が上がったということだと思います。こんなにも恐ろしい女忍者を思い浮かべて、これからは他の小説を読むことができるのだから。

というわけで、本日の教訓は「自分の想像力に満足してちゃダメ!」でございました。
僕みたいに「くノ一」と聞いてもせいぜい水戸黄門ぐらいの絵しか思い浮かばないという人にとって、この作品から受けるインパクトはそりゃもう絶大なはず。経験者は語ります。エロいの嫌いとか言わずに一度読んでみてもらいたい。ブッ飛ぶぞ。

あと、「魔界転生や柳生忍法帖クラスの超A級傑作に比べたらさすがに見劣りするだろ? じゃあパスでいいや」という人にもね。

山風を甘くみたらあかんで。


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余談。
ジョジョの奇妙な冒険と山風忍法帖の関連について論じた言説はどこかにないものでしょうか。小説と漫画、まったく異質な表現形式なのに、この両者は狙っているものがとてもよく似ている気がする。

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回想。
山風をまだ知らなかったころ、忍者ものといえば司馬遼太郎の「梟の城」が好きでした。でも映画版を見てめちゃくちゃ失望した覚えがある。あのトラウマを癒すために、そして山風と比較するために、いま一度原作を読んでみたいと最近思いはじめた。でも本をどっかへなくしてしまった。文庫本って読みたいときになぜか見つからんよなぁ。
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by umi_urimasu | 2006-10-07 21:31 | 本(others)


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