この人の本はほんとに面白い。
両手両足を切断しながらも狂言歌舞伎を踊りつづけた執念の役者、三代目澤村田之助の凄絶な生涯を、彼の付き人である市川三すじの目を通して描いた一代記。舞台上と楽屋裏、役者の顔の裏表、芝居町の栄枯盛衰など、江戸のスターダムにまつわる明暗の対比が印象的な作品です。 とりわけ美しいのが、言葉にしがたい物悲しさをたたえて冒頭と結末を飾る雪の情景。死を顧みず川面を遡る白蝶の大群のイメージは、美のために己が心身を削り、ついには崩れ散った男の人生の象徴として描かれたものかもしれません。 しかしこの田助さん、まさに皆川博子に小説化されるために居たような人だ。なんとも壮絶な滅びっぷり。 「死の泉」「笑い姫」と同じく、「花闇」もまた現実と虚構の交錯にとことんこだわった小説です。 江戸時代末期の文化風俗、生活習慣や言葉づかい。実生活レベルの描写のひとつひとつはいかにも本当らしく思えるし、実際正確な資料にもとづいたものでしょう。しかしその正確さは、嘘八百の作り話を史実と錯覚させるべく捏造された「目くらまし」の部分と、ほとんど区別がつきません。個々の断片は確かなもののはずなのに、皆川博子の詐術じみた構成力と圧倒的文章力にかかると、真偽の境界は忽然として曖昧なものになってしまう。読み終えた後にネットで調べて「ここまでネタだったのか」と驚くことが、皆川作品においては珍しくないのです。 最近では僕はむしろ、それらの真偽は永遠に正されないままの方が読み手にとっては幸せなんじゃないかと思ったりするぐらい。不確かな虚実の狭間で翻弄されながら味わう物語の快楽に比べて、歴史の教科書が語る史実とやらの何と味気ないことかと。 いっそこの世にネットがなければ良かったのに。そうすればみんな、嘘を嘘と見抜けないままで済む。 にしても、男が女を演じるという倒錯、虚実相半ばする物語を包む背徳の香り、それらがちっとも暗くいじけていないのはなぜだろう。描かれているのが「死んでも芸に打ち込む」という、究極的にポジティブな人間の姿だからだろうか。 むせ返るような腐臭を放つ「死の泉」もいいけれど、和風の哀愁をすっきりまとめるこういう作風にかけても皆川博子、ずば抜けた手際だと思います。 あと、読んでいて特にびっくりしたのは、当時の歌舞伎役者のライフスタイルに関する社会常識のありかた。あまりに普通に男色の描写が出てきて、かなり戸惑いました。いわく、女形を務める子は幼い頃からバイセクシュアルとしての自意識を叩き込まれ、十歳になるやならずでいわゆる「客を取る」行為までするとか……そしてそんな子供でもスポイルされずトップスターとして大成できるシステムが、閉鎖社会の内とはいえちゃんと機能していたこととか。さらに、女形役者の衆道趣味はありきたりなゴシップとして特に倫理的な抵抗もなく世間に受け入れられ、むしろ役者として当然の嗜みとみなされていたらしいこととか。 まさにデカルチャー。 歴史はフィクションだ、と慨嘆せざるを得なかったですね。事実か作為かの違いは問題じゃない。自分の常識や社会通念が通用しないその世界は、等しく「異界」なんだなあと。
by umi_urimasu
| 2006-03-09 00:34
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