訳者あとがきにこんな文句があります。
「シュレディンガーの猫の気持ちになってみろ!」 …… 我輩は猫である。目下超ヤバい状況である。 半減期ってムネきゅん? ていうか眺めてないで助けろって。食い殺すぞ人間ども。魍魎の匣的に。 誰かー、出してくださいよー。ああ、あれは彗星かにゃー…? ─── 2034年、夜空から星が消えた。直径240億キロメートルに及ぶ謎の球体が、太陽系をすっぽり包み込んでしまったのだ。その原因も性質も、すべてが不明のまま33年が過ぎたある日、パースで探偵業を営むニックはとある女性の捜索依頼を受ける。だがそれは、想像を超えた宇宙規模の大破局の引き金だった──。 科学史上もっとも成功した理論といわれる量子力学。そして現代人の心を日々脅かしつつあるアイデンティティ喪失テーマ。この二つを組み合わせた衝撃のアイデア小説「宇宙消失」。作者は現代SFの旗手、グレッグ・イーガン。やってくれました。よく考えるな、こんなとんでもないこと。 ミクロな世界を統べる量子力学には、絶対厳守のルールがあります。それは「観測者が対象を観測するまで、対象の状態は決まらない」っていうもの。言いかえると、「誰も見ていない間は、どんなに可能性が低いことでも確率的には起こりうる」。 このルールのために、量子レベルでは人間は次に起こることを確率的に予測することしかできません。けれど、もし万が一、誰かがその確率を自在にあやつれる能力を持ってしまったとしたらどうなるか?さらに、じつはその確率をあやつる力こそが、この世界を今の姿に維持している原動力だったとしたら?というお話。 もう少しわかりやすい言い方で。 たとえば「多元世界」とか「平行世界」という考え方がありますね。鏡の中の世界のように、この世界とほとんどそっくりな世界がたくさん存在するというあれです。ここへさっきの量子力学ルールを適用すると、多元世界とは無数の確率上の世界が重なりあっている状態だということができる。いわばマクロな世界の量子化ですな。そしてこの作品では、人はある技術によってこの世界的量子化状態を作り出し、しかもどの世界を選ぶかを自分で決められるようになるのです。めちゃ便利だ。 で、問題はここから先です。 仮に自分がそんな力を持てたとしたら? たぶん誰もが、自分の理想とする世界を選び取ろうとするに違いない。 あらゆる可能性と同じ数だけ世界が存在するのなら、何億何兆という世界のどれか一つにはあらゆる点で完璧に自分好みの世界があって、そこでは自分が今よりもずっと幸福な人生を送っているはずだ。そして、ただ望むだけでその一つを選ぶことができるなら。誰だってそーする。おれもそーする。虹村形兆だってそーする。 これは別段SFに限った話じゃありません。夢でもいいし、ゲームの仮想現実でもいいし、もしもボックスでもいい。どれも問題の本質は同じです。もちろん現実には、スイッチひとつで理想の自分になれるなんてことはありえないけれど。 科学のルールにこだわらなければ、このテーマはミヒャエル・エンデの「はてしない物語」あたりにも相通ずるものでしょう。 ただし、自分ひとりが自己発見をすれば済む哲学ファンタジーとちがって、「宇宙消失」では自分に都合のいい世界を罪悪感なしに選ぶことはできない。なぜなら、ひとつの世界を選んで他を「なかったこと」にするのは、残りのバージョンの自分をすべて皆殺しにするのと同じことだから。 こんなことが耐えられるだろうか? 彼らは夢でも幻でもなく、この自分とまったく同じようにリアルな人生を生きている自分自身なのに。神の摂理というならまだ納得もしよう。しかし神でも仏でもなく、ただの人間がたわむれに振るサイコロの運次第でなかったことにされてしまう、この宇宙がそこまで不確かなものだとは。 でもまあ仕方ないよね。そういうふうに出来てんだから。 冷たい結論ですが、虚無主義ではないと思います。たとえ現実と虚構の区別が意味をなさないとしても、一瞬ごとに可能性の世界を殺し続けなければならないとしても、我々はきっと我々が選んだ唯一の日常を生きるしかない。そもそも、別に多元世界でなくたって、人は皆いつだって不確かな現実を生きているはずではないか。他人に迷惑をかけまくりながら。 そんなわけで、エピローグを読み終えたあと、目に映る現実のものがやたら新鮮に見えてしまいました。良質のファンタジーを読んだときに抱くのとよく似た感覚かも。 イーガンの作品を読むといつも、普段は気にかけてもいない平凡な日常の重さがずしりと肩にのしかかってくるなあ。 でもそれは、怖いけど心地よい重さだと思うのですよ。 この本は決して、手品のような論理ゲームで口うるさい科学好きを喜ばせるだけのマニアックなSFではありません。人間誰しもがもつ悩みや望みを的確に突き、自分はいったい何者なのか、自分が世界とどういう関係にあるのかを問い直させる、一種の人生哲学書に近いものです。 タイトルやあらすじからは到底そうは思えないでしょうけど、ホントです。いやホントに。 ─── 余談。 ふと思ったんですが、「宇宙消失」に登場する〈アンサンブル〉の力って、モロに「レクイエム」+「キング・クリムゾン」じゃないですかね。ジョジョの奇妙な冒険の。テーマ的にもジョジョ第五部とこの作品はかなり近い所を狙っている気がする。 ん、これもネタバレなのかな。まあイーガン作品のレビューなんて何をどう言ってもネタバレになってしまうので、もうネタバレ回避自体をあきらめてますが。ごめん未読の人。
by umi_urimasu
| 2005-08-03 00:55
| 本(SF・ミステリ)
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