ロシアの伝説に残るユートピアとしての日本国
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増補 聖なるロシアを求めて―旧教徒のユートピア伝説 (平凡社ライブラリー)

中村 喜和 / 平凡社


ずっと気になっていたこの奇妙な本を、「夏休みだから」というよくわからない理由で読んでみました。めあては、明治時代に東方の理想郷「白水境」(ベロヴォージエ)をめざしてウラルの奥地から日本までやってきたカザーク(コサック)の旅行者がいた、という驚くべきエピソードを紹介した第三章。いやはや、面白い。ほんとにヤーパンまでエクソダスしちゃったのかよ。

多くの貧農たちを東方へのあてどない探索行に駆り立てた日本=ベロヴォージエ伝説。そこへの行き方を記したガイドブックとして19世紀に旧教徒のあいだで知られた「日本国(オポーニア)への旅案内」なる怪文書は、じつにいかがわしさ爆裂な代物だったようです。いわく、その島々には数百もの教会があり、ロシア人は大歓迎を受け、誰も国に入れずどことも戦争をせず、教会がすべての民を治めている、云々。また、19世紀半ばのアルカージイなる人物はさらにひどく、「日本総主教」叙任証をたずさえて北ロシア各地を巡り、ベロヴォージエには50万のロシア人が住み、教会の数は700、皇帝の名はグリゴーリイ、などとまことしやかに吹聴してまわったそうな。

当然ながら、アルカージイの妄言を真にうけて旅に出たカザークがたどり着いた土地は理想郷などではありませんでした。そこはなんの変哲もないただの日本でした。もう長旅ご苦労様でしたとしかいいようがない。けれど、この話を聞いて不思議と彼らの無知を笑う気にはなれません。知識人でも国家使節でもない無学な農民たちが、理想郷の実在を確かめたいというただそれだけの動機で実際に15000キロの道のりを越えてしまう。結果がどうあれ、そんなとてつもない奇行をしでかしたパワーが単純にすごいと思います。人としてのパワー配分が、もう信仰力一択って感じなんですかね。
ウラル・カザークたちはこの日本行のあともまだあきらめず、文豪トルストイを訪ねてベロヴォージエのありかについて教えを乞うたそうです。トルストイは1904年の知人宛ての手紙にこう書きました。「(カザークたちの来訪の理由を知り、)この驚くべき現象は非常に非常に重要なことを考えさせます。」

古きよき信仰を守る正しきキリスト教徒だけの蜜あふるる約束の地。どこにあるかわからんがそれは絶対にあるんじゃよー。そうした、あいまいなわりに強烈で切迫した実在理想郷への夢につきうごかされ、人々は大挙して東方へと放浪をくりかえしました。当局につかまってシベリア送りにされたケースも多かったとか。では、そのロシア旧教徒とはいったいどういう連中であるのか。Wikipedia では、ギリシャ正教の流れを汲むロシア正教会の中の古儀式派 (分離派)の項で、彼らについてわずかに言及されています。キリスト教の主流派とケンカして以来迫害を受けつづけてきたマイナーで厳格な宗派です。ただし その記述からは、生活感とか日々の苦労みたいなリアルな部分はちっとも伝わってきません。そういうものに触れうるのは、やはり当の人々が世代を重ね伝えてきた伝説や伝承や歌でしょう。
本書で紹介されている多くの文献や口承史料から、その考え方、ライフスタイル、歴史的ないきさつが見えてくるにつれ、驚嘆の念は増すばかりです。あんたらどんだけ厳格主義なんだよ! 迫害と窮乏に耐えて古い信仰を守りぬくため、また信仰による団結なくしては生きていけなかったためとはいえ、宗教面でおおざっぱな日本人には想像もつかないほど過酷な孤立の道を、彼らは凄まじい頑固さで歩んできた(あるいは、21世紀の今もまだ歩みつづけている)らしい。いやもう、ほんとご苦労様としか。

ロシアのユートピア伝説として Wikipedia に載っている例は、スヴェトロヤール湖に沈む見えぬ町 キーテジ だけのようですが、本書にはその他にも、前述の白水境(ベロヴォージエ)、17世紀の司祭アヴァクームの自伝に出てくるバイカル湖上の楽園、オスマントルコ領のカザークが語り伝えたバグダッドの彼方にあるという「イグナートの町」など、さまざまなバリエーションが取り上げられています。特にキーテジに関する考察は徹底的。さすが本職の研究者たちはやりこみ具合が半端ねぇと感心しました。それ単体で読むとわけがわからず戸惑うところの多い日本の遠野物語とかも、ちょうどこんなふうに研究成果といっしょに読めるといいなと思ったり。
『遠野物語』を読み解く (平凡社新書 460): 石井 正己: 本
これなどがよいかの。

著者の中村喜和氏は中世ロシア文化史の泰斗として功績厚い人物だそうで、本書の内容も論文集的な色合いがちょっと濃いめです。僕のようなずぶの素人には敷居が高すぎるところも少なからずありました。が、そこらへんは伝奇愛で押し切った。「もしも柳生が」的な精神で。これさえあれば大抵の歴史本はなんとかなる。

ネット上では、白水境ベロヴォージエやキーテジ伝説、トルコのカザークなどについて日本語で詳しく紹介している場所はほとんどありません。この本にしても、知らなければ永久にそのまんまになる可能性がきわめて高いものでした。僕に読むきっかけを与えてくれたのは魚石庵の紹介記事 読書録「増補 聖なるロシアを求めて」です。かたじけない。足を向けて寝られないです。

以下、関連 Wikipediaリンク。
世界の理想郷伝説 - Wikipedia
アヴァクーム - Wikipedia
キーテジ - Wikipedia
ロシア正教会 - Wikipedia
古儀式派 - Wikipedia

余談ですが、魚石庵主様による 「伝奇ゲームファンのための日本伝奇入門」は、ネットで読める初心者のための伝奇小説ガイドとしては最上級のものでしょう。伝奇道で行き先に迷ったらまずはここ。

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by umi_urimasu | 2010-08-11 20:01 | 本(others)


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